Have been SixTONESED by SixTONES

推しとか本命とか担当とか、そんなんじゃ言い表せない

偉大な恋愛の終わりは凡庸にしてしまいたいよな

マスカラ、放たれちゃったなあ〜!

 

今をときめく音楽家SixTONESに曲を書いてくれるってぇのはたまんねぇなぁと、

つくづく浸ってしまうんだけど、YOSHIKI

"これからを担う若い世代に翼を授けたい"

という眼差しも最高だけど、

同世代のバチバチにクレバーにぶちかまそうと息巻いてるような常田大希って人間が、

かましちゃってよ、力貸すから」

ってな具合に、好戦的な眼差しでポンと放り投げられたような関係性が最高に気持ちが良い。

時代がゴリゴリメキメキ動く音がするよ。

(妄想です)

 

 

歌詞についてつらつらと考えていて、ツイートにするには思考が散漫になるから、とブログにしてみた。

 

 

何回か通して感じたのは、これは「狭間の歌」であること。

切ないと言えばそれまでなんだけど、実際のところ一つの恋が終わる時って、切ないなんていう感傷だけで済むかなと。

(まぁこういう線引きは良くないけど男性はロマンティックになりがちだから感傷だけでいけるのかな)

(んーでも女性だから現実的かどうかというのも決めつけでしかないし、こういう取り掛かり方は良くないんだろうな、という自問自答)

好きだったなー、いやでもあんなやつなー、もっと優しくしてたら違ったのかなー、あー信じてたのにまたやっちゃったなー、みたいなとめどない後悔と恋慕と痛みみたいな自問自答を感じた。

切ないと言い切ってしまうのはそれこそ凡庸よな。

 

 

恋の始まりや恋の経過は「今までと違うかもしれない」の積み重ねで、そんな積み重ねを通して思い入れてみたり、錯覚を繰り返して、"終わらない夢の狭間"を行き来して、永遠を嘯いてみたりする部分が多かれ少なかれあると思うんだけど、終わってしまった恋に向き合おうとすると、途端にそんな勘違いをしてたことが気恥ずかしくなって、その気恥ずかしさをやるせなさと一緒に「凡庸なラブストーリーだ」って丸め込んで投げ打ってしまう心持ちは分かるなと思って(驚くことに一文である)

 

MUSICDAYで最後にその部分を歌う京本大我の顔は、

"凡庸なラブストーリーが丁度いい"なんて微塵も思ってなさそうで、

そうやってうっちゃってしまえという諦念と自棄になってる感じが内混ぜでとても良かった。

 

 

"ありきたりな毎日に足りて足りて足りてない僕ら"

この欠乏感が凄く良いなと思っていて、なんとなくこの"僕ら"は2人の話じゃなくて、

今を生きる"僕ら"なような気もしていて、

結局ありきたりな毎日をそんなもんだと手懐けて、足りてるような素振りで生きてみてるけど、

結局腹が膨れることもなくて、そんな空腹を埋め合えた相手だったんだろうなとか。

"強くなれたならば素直になれるかな"

"強くなれたならば優しくなれるかな"

初めは無垢なまま素顔なままで向き合っていた二人が、弱さに負けて素直になれず、優しくもなれなかった腹を空かせた二人になり、マスカラを塗り重ねるように、次第に"見えすいた完璧なフリ"や"見えすいた嘘"を覚えてしまって、瞬きも重くなって、相手が見えなくなってしまったのかもしれない。

 

各所で言われている"マスカラ"の語源が「覆う」を意味するイタリア語であることを鑑みると、"マスカラ(が)剥がれたまま"出かけようとすることは、弱い自分を覆っていた仮面を外して進んでみるかということなんだと思う。

 

でも、ここでポイントなのは、自分から取り去ってしまったわけじゃなく、悲しみの涙で剥がれただけで、受動的に"取れちゃった"こと。

自分に言い聞かせるように、重ねてきた言葉も結局のところ助けが必要な弱さを内包していて、

その辺りが生々しいというか、寄せては返す波のように割り切れない思いがとめどない様子が表れてるなと感じた。

 

だから、冒頭で言ったように「狭間の歌」だと思った。

 

単純に、マスカラが剥がれているという、自暴自棄な状態や、多分ちょっとスマッジしてるような気怠さなんかも、この湿度がありながらカラッとコーティングされたような雰囲気に一役買ってるんじゃないかなと思い描いたり。

 

 

ま、つらつらふらふら書いたけど、フルが楽しみすわ❤️🥊

 

 

最後に衣装だけは考え直さんか?